2018年7月30日月曜日

ヒストリーを少々(始まり編)

台風12号は大丈夫だったでしょうか?知多半島は直撃は免れましたが、日曜日の0時過ぎからは、結構な風と雨。日曜日もはっきりしない天気が続きました。今日は晴れたと思ったら、気温は35℃の予報です。今度は熱中症にご用心。一難去ってまた一難です。

さて、ギターネタが少ないこのブログなんだけど、趣味の中心はやっぱりギターなんだな。なので、長く続けてきた歴史的なものを書き残しておこうかと思った次第。

【ギターの始まり】

中学生時代にさかのぼる。学芸会では、クラス毎に学級歌と愛唱歌を歌う事になっていた。その年、クラスで選んだ歌は『青年は荒野をめざす』だった。五木寛之の小説や、フォークルで有名な題名だ。

ピアノが弾ける同級生はいたし、トランペットもブラスバンド仲間に吹いてもらうことにした。ところがギターで前奏を弾ける奴がいなかった。一人『俺が弾ける』って奴がいたんで、ギターを持ってきてもらって学校で聴いてみると、単音で旋律をポロンポロンと鳴らすだけだった。がっくりしたけど、しかたがないので前奏もアレンジして変えた。こんな残念な前段があって高校生になった。

その頃、グループサウンズは既に下火になり、吉田拓郎・井上陽水などが台頭してきた時期だった。アルバイトでお金をためて、買ったのはヤマハのFG-140だった。この1万4千円が限度だったな。
ネットからの借り物です。
当時、ドレッドノートの大きさはウェスタンギター、OOOタイプはフォークギターと呼ばれていた。FG140はウェスタンタイプ。昔はこの大きさに憧れたんだ。たしかハードケースも一緒に買ったと思う。そのハードケースにはこともあろうに『Gibson』と白インクで書いていた。当時はJ-50に憧れてたから。そのケースはいまだに持っている。

当初はコードストロークから入門した。もちろん、Fを押さえるのに四苦八苦した記憶がある。それでも左指が痛くなるまで練習したな。

好きだったのは『赤い鳥』。
故・山本俊彦、平山泰代、大川茂
後藤悦治郎、山本潤子(旧姓新居)
Hi-Fi-Setや紙風船の前身となったグループで、翼をくださいとか竹田の子守唄とかが有名。納屋橋のヤマハビルまでよく見に行ってた。

竹田の子守唄や赤い花白い花でアルペジオを練習した。PPMのPuffとかBlowin' in the windでツーフィンガーとスリーフィンガーをマスターした。教科書はYoung Guitarや新譜ジャーナルだった。この頃から、あまりコードストロークはしなくなった。唯一、ピックを使っていたのは、もっと後になるが、22才の別れとか置手紙。フラット・ピックを使ってツーフィンガーのように弾くためだった。

この頃、両親が離婚して一家離散することになった。僕はといえば一人名古屋で下宿生活に突入した。だからしばらくはギターとは無縁の生活になった。この頃の事は思い出したくもない嫌な時期だった。


つづく

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